戦後を生きて(8)退職

38年務めて、晴れて退職したNさんからオレンジジュースが送られてきた。
先日退職祝いをしていたが、それのお返しらしい。

彼は夫の後輩で、彼が新任の時、一緒に努めた仲間でもある。
一緒の学年を担任したので、先輩として何かと親切をしていたのだろうか、同じ職場を去っても、毎年夏と冬には何かと気を使ってくれていた。

あの日があったので今日がある・・・・・彼から何度聞いたことだろうか。
今ごろは心静かに整理をしたり、農作業をしたりのどかに過ごしていることだろう。
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退職は人生の一つの節目、悲しみや喜びなどいろんなドラマがある。

asanagiの退職は悲しみと不安と口惜しさと、申し訳なさとで何とも言えない暗いものであった。

23年務めて、45歳という若さで退職を迎えることとなった。
母への恩を考えると、何としても38年間の定年退職まで勤めたかったし、子供たちのことを考えると、せめて下の娘が大学を卒業するまでは勤めたかった。

しかし、当時は夫が管理職として出世するには共稼ぎ、特に同職は許されなかった。
一方が退職しない限り、管理職候補には推薦されなかった。
毎夜のように話し合っても擦れ違いばかり、夫の理解は得られなかった。
悔しさで何度も泣き明かしたが、母が、「止めてあげなさい」といってくれたこと。
夫が、「止めてくれなければ、家庭がうまくいかなくなるかもしれない。」といったことで、asanagiの気持ちが固まった。

しかし、退職の日は涙が止まらなかった。
女であるが故に職場を追放された悔しさがこみ上げてきた。
当時大学生と中学3年生の子供たち、これから教育費がかさむという不安もあった。
昭和63年3月31日、昭和もasanagiの退職とともに終わりを告げた。

辛く、悲しい退職のドラマであった。

夫の退職はこれと対照的。
38年間、定年退職まで、この道一筋で勤め上げた退職である
同僚、子供たち,父兄の皆様に慕われ、お祝いされ、達成感いっぱいで充実した退職であった。
最後の3月31日、午後23時59分には真夜中にもかかわらず、最後に努めた学校に行き、校門に、お浄めの水をかけて終わった。
その時、asanagiと娘も同席したが、どこからともなく、父兄や同僚、子供たちがやって来て、最後は校門の前で、胴上げ、感動的に終わる事が出来た。
2000年3月31日、20世紀も夫の退職とともに終わりを告げた。

賑やかで、みんなに祝福された退職のドラマであった。
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asanagiが退職した頃、やっと日本にも女性雇用機会均等法が制定され、女性の総合職が生まれることとなった。
その後、教育界でも教頭までは共働きが許されるようになり、最近は夫が校長でも共働きは一部許されている。

しかし、まだまだ女性の働き方は問題が多い。
最近は保育所の問題が世間を騒がしている。
相変わらず、女性の低賃金、重労働問題も解決できていない。

これからは女性が泣き寝入りせず、一つ一つ権利を勝ち取っていかなければならない。
そのためには女だからと言って、いい加減にせず、やるべきことはきちんとすること。
女性が本当に勝ち取るべきことは何か、自分で判断できる女性に育ってほしい。
女性が男性と同等に活躍できる新しい世の中がどんどん広がってくることを願っている。

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by asanagi62 | 2016-04-29 14:11 | 戦後を生きて | Comments(0)

戦後を生きて(7)原風景

久し振りにウオーキングに出かけた。
風はまだ寒かったが、久しぶりのコースはすっかり様変わりしていた。
レンゲ畑が広がり、白詰草アカツメグサも咲き誇っていた。
故郷には田んぼが無いので、レンゲ畑は懐かしいというより、広々として気持ちいい。
タンポポはほとんどが綿毛。
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しばらく歩いていると、アザミの花に出会った。
几帳面な性格だったasanagiは明日、図工の時間にスケッチするアザミを探して、母と泣きながら山道を登ったことを思い出した。
やっと見つけて学校へ持っていったら、誰も持ってきてないからといって、簡単に取りやめになった。
いつか先生に出会った時、冗談交じりに話したいと思っていたが、今だ出会えてない。
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次々と故郷で過ごした風景や出来事が走馬灯のように浮かんできた。
しかし、なぜかこの風景は懐かしいというより芯から親しめない景色なのである。
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時折思い出す懐かしい風景は、神戸の長屋。
我が家の前には長屋があって、そこに住むお姉さんや風呂屋のおっちゃん、散髪屋のお兄さん。
いろんな年齢の子供が一緒になって草野球をしたことが懐かしい。
asangiの阪神フアンはここに原体験があるのかもしれない。
当時は「電車の中で、巨人の話などしていたら半殺しの目に合うぜ。」
とよく父親が言っていた。

なぜかあまり親しくならなかったお隣のたかちゃん。
インテリ風の家だったので、あまり外には出してもらえなかったようだ。
年の頃は同じだったが、あの人は今・・・・どうなっているだろうか。
会ってみたいものである。

風景も、パン屋さんであったり、湊川神社であったり、夏祭りには両側に傷痍軍人さんが立って物乞いをしていた景色であったり、たまに出る街にはがれきの山がそこここにほったらかしていたり、そんな風景がたまらなく懐かしくなるのである。

東日本大災害の時も、今回の熊本地震の時もあの瓦礫の山を見ると、空爆で焦土化した神戸の街が出てきてしまう。

asanagiの原風景は12年暮らした実家ではなく、その後半世紀を過ごしたこの町でもなく、焦土化した神戸の街なのかもしれない。

asanagiが大学を卒業して、初めて就職した学校は山の中の中学校であった。
川の淵の少しの平地に立っていた中学校には両側の山から子供たちがやって来る。
片道何キロもの道。
「あの道を通ってくる子供たちに、勉強せよとは言えないよ。」
教頭先生が言っていた。

見渡せど山しかない生活にすっかりがっかりして、一日も早くここから脱したいとそればかり考えて2年間を過ごした。
結論は結婚しかなかった。
ここを脱したい一念で、次男の夫を選んだが、彼は故郷を捨てれない人であった。
山の学校から平地に降りたが、近くの盆地のこの町に根ずいてしまった。
この町も、孫は「おばあちゃん、山しかないねえ」という。

次の夢は子供二人を東京の大学に進学させ、退職した暁には子供の住む都会へ出たい。
これも思うようにはならなかった。
子供たちは思い思いの場所を選び、それぞれの地で生活の土台を築いている。

広々した畑や田圃を眺めても、城山に上がって盆地の中心に立っても、故郷っていいなあという思いより、もうここで終わるのかという思いに駆られてしまう。

子どもを守る、夫を守る、家族を捨てない、家を守るというasanagiの几帳面な性格が生き方の根本に流れていて、思い切った行動に走れなかったのは事実である。

しかし、すべてが終わろうとしている今、なんとなく、割り切れないものはあるが、この道を選んだことは正解だったかもしれないとしみじみ思うのも事実である。
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by asanagi62 | 2016-04-25 11:11 | 戦後を生きて | Comments(0)

戦後を生きて(6)安保法制施行

今朝の0時から安保法制がいよいよ施行されることとなった。
戦後守ってきた不戦の誓いが転換されるのである。
他国軍の後方支援に始まって、自衛隊の海外活動は地球規模になるという。
戦後初めて、日本人が他国の人を殺したり、殺されたリできるようになるという。

人間が人間を殺し合う戦争の体験はしていない。
しかし、現在行われているシリアの内戦、ISのテロ等を見ていると戦争の悲惨さに身震いがしてくる。
ボロボロに破壊された建物。そこには昨日まで人が住んでいた住家がある。
中には何千年前の貴重な文化財もあり、取り返しのつかない罪を犯している。
人もどんどんなくなっている。泣き叫ぶ子供を見ていると、痛ましくてならない。

我が子わが孫、日本人が再び戦地で殺し殺される世の中に決して戻ってはならない。
不戦を誓った国民が再び銃を取ることは断じて許されないことでもある。

71年前の3月、日本の大都市は大空襲に合っている。
それまで、空爆は軍の施設中心だったが、非戦闘員を対象とした無差別爆撃が始まった。

昭和20年の3月、10日の東京大空襲。。
続いて、3月13日の大阪大空襲。
それに、3月17日の神戸大空襲。
そして、3月19日の名古屋大空襲。

B29という戦闘爆撃機が300機を超える大群でやって来て、約3時間もの間、日本の大都市に爆弾を落とし続け、人は皆殺し、家も焼き討ち、何十万人という人々が一夜にして地獄の底に落とされてしまったこの事実。
その後もどれだけの人が苦しみ続けることになってしまったか。
日本人なら未来永劫忘れてはならないことである。

当時の人なら、もう決して戦争はしないしたくないと誓ったに違いない。
今を生きる私たちはもう決して戦争はしない不戦の誓いを未来に繋げ伝え続けていかなければならない。

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by asanagi62 | 2016-03-29 15:37 | 戦後を生きて | Comments(0)

戦後を生きて(5)おひなさま

3月は別れの季節。

73年間にはいくつかの悲しい別れがあった。
中でも悲しい別れの一つに父との別れがある。

その日は3月だというのに大雪。
高校の入学試験が終わりほっとしていたときであった。

その頃は給食が無く、昼休みになると、家に帰って昼食を取っていた。
「ただいま」と言って戸を開けるなり母が出てきて「お父ちゃんが・・・・・」
といったきり母が涙を浮かべているのが分かった。
無性に悲しくなり、ずっとずっと泣くばかりしていたように思う。

父は外国航路の船員で、南米方面へ行っていたそうである。
戦争が激しくなり、航海の危険を悟って、いち早く仕事を退職していた。

その頃の神戸は連日のように焼夷弾が空から降ってくる。
家でいても毎日が大変。
仕方なく、一家は実家に疎開することになったそうである。。

仕事が無ければ実家にいても家族を養っていくことはできない。
家族のために戦後再び神戸へ行ったが思うような仕事にはありつけなかったらしい。

苦しい中酒におぼれる日もあったのではないだろうか。
諦めて実家に落ち着いてお百姓をしようと思った頃には父の体はボロボロ。
戦後13年間苦労に苦労を重ねて、47歳という若さで父はこの世を去ることになってしまった。

その日が昭和33年3月3日、おひなさまの日である。

父との思い出には楽しいことはあまりなくつらく悲しいことの方が多い。
それは父と過ごした15年間の日本があまりにも残酷に破壊された貧しい日本だったからではないだろうか。
そんなことを考えていると、苦労ばかりして、若くして命を落とすことになった父が哀れでならない。

そして、戦争は二度とするもんではないと強く強く言いたくなるのである。


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by asanagi62 | 2016-03-16 22:33 | 戦後を生きて | Comments(0)

戦後を生きて(4)自転車

ヘルメット着用率日本一の愛媛には、サイクリングの日がある。

この日は愛媛と広島を結ぶしまなみ海道で、自転車のイベントが行われる。
風光明媚な瀬戸内海を横目に見ながら、かっこいいヘルメットを着用し、自転車に乗って、のどかに橋を渡る。考えただけでも爽快感がわきあがる。
さわやかさで、ストレスも消え、さっぱりとしたいい気持になるだろう。

しかし、asanagiの時代の自転車は、生活必需品。
通勤や、通学には無くてはならないものであった。

小学校時代、大人用の大きくて壊れかけの自転車で練習し、何度もこけたり、足をすりむいだりしながら乗れるようになったものである。
子供用の自転車なんかどこにもなかった時代。

高校生になると、やっと自分の自転車が与えられる。
昭和20年~30年にかけて、日本は貧乏暮らし。
今のようなかっこいい自転車はなかった。
中古の錆の付いた自転車を安く買い与えられ、通学したものである。
チェーンが外れた、ブレーキが利かなくなった、タイヤがパンクした等の故障はつきものであった。

asanagiの高校は海岸通りを自転車で30分ほど走ると、その先の街の中心にある。
天気の良い日、春は磯の香り、夏は潮の香り、秋の夕暮は夕日を見ながら通学したものである。

しかし、雨降りや風の強い日、冬の寒い日は最悪であった。
横殴りの雨で、何度もびしょ濡れになった。
海があれた日は5メートルほどもある波しぶきを体全体にかぶり、制服はずぶ濡れ状態。
ひどい時は下着も、学用品も全部びしょ濡れ状態であった。
当時、高校には暖房もなく、震えながら授業を受けた記憶も懐かしい。

こんな事も思い出す。
妹が高校入試の日。
習いたての自転車に乗って家を出たまではよかったが、家の前の道路が少し坂になっていた。
ブレーキを利かす余裕がなかったのか、ブレーキが利かなかったのか、家を出て10分もしないうちに、妹は自転車ごと海へ突っ込んでいた。
入試が始まるまでの時間はわずかしかない。
妹はずぶぬれで震えている。
母はその時どうしたか。asanagiはほとんど覚えてはいないが随分あわてたことだろう。
しかし、母のとっさの判断と、周りの人たちの暖かい協力のお蔭で、妹は無事高校へ入学する事が出来た。

いろんなドラマを生んだ自転車であったが、最近はほとんど乗らなくなってしまった。

高校を卒業して10年余りで、はじめて自動車が我が家にやってきた。
そして間もなく自分で運転ができるようになった。
自転車に初めて乗った時以上の感動であった。
自動車を自分で運転するなど信じられないことである。

そんなことに驚いてはいけない。
最近は、運転者なしの自動車が、出現している。
80歳になったら運転は止めようと思っているが、その時は、運転のいらない自動車が我が家にやって来て、感動しているかもしれない。 

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by asanagi62 | 2016-03-05 15:30 | 戦後を生きて | Comments(0)

戦後を生きて(3)風呂敷の日

今日は風呂敷の日。

風呂敷というと、思い出すのは書道。

小さい頃はお習字と言っており、書くのが大好きだったのを覚えている。
冬休みや夏休みの宿題には決まってお習字があり、休み後の展覧会も楽しみだった。
「毎日書いて、最後の日にお清書をして出しましょう。」
と先生に言われると、休み中毎日書くという生真面目なasanagi。
展覧会にはよく賞をいただいていた。
その頃の賞は鉛筆1本に賞状。
郊外にも展覧会がよくあり、必ず、金賞とか銀賞をいただいていた。
そのせいで、小学校当時は鉛筆を自分で買うことはなかったのを覚えている。

その後しばらくお習字とは離れていたが、退職後、再び書道に熱中することになった。
息子がイギリスに留学した時、夢中になるものが欲しくて、本格的に書道の勉強をすることになった。

毎月、半紙に、楷書行書草書の三体、半切の課題をこなし、県展や所属書道会の展覧会にも出品し、多忙を極めた。
朝は10時から2時間、午後は1時から4時間、夜も3時間ぐらいは書いており、名実ともに書道漬けだった。

お蔭で、師範のお免状もいただき、一時高校の講師として、勤めることにもなった。
県展でも、入選させていただいたこともある。

しかし、自分ではまだまだ、まだまだと思っているうちにどんどん前に進んでしまいいつしかいろんなところに無理がいってしまったのも事実である。

まず、体が痛み始めた。
肩が痛い。膝が痛い。
紙を持ち上げるのも広げるのも苦痛になり始めた。
その内、心も折れはじめる。
体力、財力、を使い果たしている割には今一上達しない自分がこれでいいのか悩み始めたのである。
結局、体力、財力、気力のすべてに行き詰まり、書道は休止することになってしまった。

その頃、書道の先生から、いただいたのがこの風呂敷であった。
今の生活ではほとんどこの風呂敷を使うことは無い。
かつての喜びや悲しみ、苦しさをすべて飲み込んで、asanagiのタンスに眠っている。

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by asanagi62 | 2016-02-23 14:00 | 戦後を生きて | Comments(0)

戦後を生きて、(2)裸の王様

アンデルセンの童話に裸の王様がある。
洋服好きの王様が、この洋服はバカには見えないと騙されて、裸で街を歩いてしまい大恥をかく話である。

この話、よく読んでみるといろんな教訓が隠されている。
王様は我がままで自分の思うようにしたい。
しかしバカだとは思われたくない。
家来も王様に忠実でありたい。
しかし、自分が馬鹿だと思われたくない。
結局本当の事から離れてしまって、王様は恥をかくことになってしまった。

このことは今の世でも大いにあることである。
こんなに物価が高くて、年金が下がって、暮らし向きはだんだんおかしくなっているのに、政府の示す統計はいいことばかり。
取り巻きは本当に正しいことを報告しているのだろうか疑ってしまう。

先日、原発禁止運動をしている元総理。
「総理時代自分は安全、安全といって原発のことを騙されていた。」と反省し、
郵政民営化より、本気で、再稼働反対運動に取組まれているらしい。
取り巻きが正しいことを報告してなかったことが悔やまれるのだと。

asanagiは戦後の近衛総理を思い出していた。
上奏文を書いて、天皇に上程すると、日本の戦地が厳しいことに驚いていたらしい。
それまで、取り巻きは戦地の実情をありのままに報告しがたくて、もう敗戦宣言した方がいいことは言えなかったらしい。

上奏文では、戦争の厳しさを報告し、敗戦後は日本共和国を作ることを密かに画策。
共産主義になってしまうより、国体護持のために、戦争を止める事が出来なかったらしい。

asanagiはあの時、なぜ、続けることになったのか、なぜ取り巻きは戦時下の厳しさや配線宣言を上程しなかったのかずっと疑問であったが日本共和国が原因だったとは。
その結果、各地に大空爆が起き、沖縄では本土決戦、広島長崎に原爆。
日本国土が焦土化し、多くの国民が戦死することになってしまった。

取り巻きが本当のことが言えない。
そのためトップは本当のことを知らない。

時の判断や上奏が真実に近くなくて、結局は国民等、弱い者にしわ寄せがいってしまう。
もし、あの時の判断が違っていたら、どんな結末になっていただろうか。

それは分からないが、この後、日本全体に耐え難い苦脳の日々がやって来るようである。
近衛内閣の上奏文は2月14日。

激しくなる戦火を潜り抜け、このころasanagiの父親は仕事を止め、郷里に疎開することを決心。
記憶にとどまっていることは何もないが、空襲警報が鳴る度、柳行李に幼いasangiを入れ、防空壕まで逃げて行ったらしい。
神戸が焼け落ちる赤い火を二階の窓から見たことも後になって母たちが話していたのを覚えている。  
 つづく。

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by asanagi62 | 2016-02-19 17:07 | 戦後を生きて | Comments(0)

戦後を生きて(1)昭和を生きて

いつか読まねば、と思っている本が我が家にはたくさんある。
その中の一冊がこの本。

昭和の事が詳しく書いてあって、世の中の動きがびっしり詰まっている。
しかし、あまり沢山はめ込んだせいか、文字が小さく理解に苦しむ本でもある。

昨年は戦後70年ということで、戦争のこと、憲法のこと、外交、人々の暮らしなど、今まで知ろうとしなかったことが明るみになり、いろいろ勉強になった。
同時に何と知らないことが多いことかと己の無知にもおどろかされた。

年末から年始にかけて、自分が生きた時代がどんな時代だったのか、調べてみたいという思いがだんだん高まってくるのが分かった。

どんな形で・・・・というのはずっと迷ってきたが、とりあえず、昭和を生きてというコーナーを作ることで、歴史の事実に思い出を交えて書いてみたいと思う。

昭和は日にして、22700日ほどあるらしいが、そのうち、asanagiが生きた日は16800日ほどである。
戦中の1000日ほどは後で調べるとして、戦後昭和20年から読み進んでいきたい。
読み進んでいく毎に、新たな発見や、後悔や感謝や、お詫びの心などいろんな感情が生まれてくることを期待したい。

昨日は島尻大臣が歯舞を読めなかったと非難されていた。
北方領土問題が戦後70年たっても解決できず、ロシアとの交渉がうまくいかないというのに、大臣が領土の漢字を読めないようではロシアに本気度を試される。と、怒っている人もいた。

asanagiも、北方領土の問題は知らないことが多い。
終戦を宣言してからなぜロシアが攻めて来たのか。
ロシアの一方的な行為になぜ日本は強く返せと言えないのか、若い頃から疑問の一つでもあった。

昭和20年2月11日・・・・asanagi2歳10か月の事であった。
この日、日本に取って 重要な秘密の会がヤルタで行われていた。
アメリカ、イギリスそしてソ連の三国である。

ドイツが降伏して、3か月後、戦争に参加して、日本を攻めてくれたら、勝利の暁には樺太、千島列島をソ連にさし上げるという密約が交わされていたらしい。         つづく
               

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by asanagi62 | 2016-02-11 15:40 | 戦後を生きて | Comments(0)