戦後を生きて(7)原風景

久し振りにウオーキングに出かけた。
風はまだ寒かったが、久しぶりのコースはすっかり様変わりしていた。
レンゲ畑が広がり、白詰草アカツメグサも咲き誇っていた。
故郷には田んぼが無いので、レンゲ畑は懐かしいというより、広々として気持ちいい。
タンポポはほとんどが綿毛。
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しばらく歩いていると、アザミの花に出会った。
几帳面な性格だったasanagiは明日、図工の時間にスケッチするアザミを探して、母と泣きながら山道を登ったことを思い出した。
やっと見つけて学校へ持っていったら、誰も持ってきてないからといって、簡単に取りやめになった。
いつか先生に出会った時、冗談交じりに話したいと思っていたが、今だ出会えてない。
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次々と故郷で過ごした風景や出来事が走馬灯のように浮かんできた。
しかし、なぜかこの風景は懐かしいというより芯から親しめない景色なのである。
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時折思い出す懐かしい風景は、神戸の長屋。
我が家の前には長屋があって、そこに住むお姉さんや風呂屋のおっちゃん、散髪屋のお兄さん。
いろんな年齢の子供が一緒になって草野球をしたことが懐かしい。
asangiの阪神フアンはここに原体験があるのかもしれない。
当時は「電車の中で、巨人の話などしていたら半殺しの目に合うぜ。」
とよく父親が言っていた。

なぜかあまり親しくならなかったお隣のたかちゃん。
インテリ風の家だったので、あまり外には出してもらえなかったようだ。
年の頃は同じだったが、あの人は今・・・・どうなっているだろうか。
会ってみたいものである。

風景も、パン屋さんであったり、湊川神社であったり、夏祭りには両側に傷痍軍人さんが立って物乞いをしていた景色であったり、たまに出る街にはがれきの山がそこここにほったらかしていたり、そんな風景がたまらなく懐かしくなるのである。

東日本大災害の時も、今回の熊本地震の時もあの瓦礫の山を見ると、空爆で焦土化した神戸の街が出てきてしまう。

asanagiの原風景は12年暮らした実家ではなく、その後半世紀を過ごしたこの町でもなく、焦土化した神戸の街なのかもしれない。

asanagiが大学を卒業して、初めて就職した学校は山の中の中学校であった。
川の淵の少しの平地に立っていた中学校には両側の山から子供たちがやって来る。
片道何キロもの道。
「あの道を通ってくる子供たちに、勉強せよとは言えないよ。」
教頭先生が言っていた。

見渡せど山しかない生活にすっかりがっかりして、一日も早くここから脱したいとそればかり考えて2年間を過ごした。
結論は結婚しかなかった。
ここを脱したい一念で、次男の夫を選んだが、彼は故郷を捨てれない人であった。
山の学校から平地に降りたが、近くの盆地のこの町に根ずいてしまった。
この町も、孫は「おばあちゃん、山しかないねえ」という。

次の夢は子供二人を東京の大学に進学させ、退職した暁には子供の住む都会へ出たい。
これも思うようにはならなかった。
子供たちは思い思いの場所を選び、それぞれの地で生活の土台を築いている。

広々した畑や田圃を眺めても、城山に上がって盆地の中心に立っても、故郷っていいなあという思いより、もうここで終わるのかという思いに駆られてしまう。

子どもを守る、夫を守る、家族を捨てない、家を守るというasanagiの几帳面な性格が生き方の根本に流れていて、思い切った行動に走れなかったのは事実である。

しかし、すべてが終わろうとしている今、なんとなく、割り切れないものはあるが、この道を選んだことは正解だったかもしれないとしみじみ思うのも事実である。
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by asanagi62 | 2016-04-25 11:11 | 戦後を生きて | Comments(0)

残された時間の中でおもうこと


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