戦後を生きて(12)基礎教育時代(ア)



c0043055_10011130.jpg
軒先に出ている青い柑橘は八朔だろうか。

さて、asanagi5才は神戸に住んでいた。
この頃からいろんな神戸の思い出が甦ってくる。

住んでいたのはひよ鳥越と言っていた。
平屋の和室2間で、玄関を入っていくとすぐ6畳ぐらいの部屋があって、その奥に8畳の和室があった。
キッチンらしいものはあったが、食事はこの8畳で円卓を囲んでいただいていた。
両親と子供5人の7人家族であったが、狭いという感覚はなかった。
長女5年生、次女1年生、次がasanagi5才、4女3歳、やっと5番目に生まれた待望の長男は1歳であった。

平屋の狭い家であったが、戦後父が購入した一戸建ての持ち家に暮らしていたそうである。

お隣にはたかちゃんの家があり、インテリ風で同年齢だがあまり交流はなかった。
そのお隣が風呂やさん。
風呂の無かった我が家は洗面器にタオルと石鹸を入れ、毎日のように通っていた。

ここは当時事件がよく起きていた。
進駐軍が入って来て、裸の人が外に追い出される姿をよく目にしていた。
タオルを胸に巻いた女の人もいて、見てはいけないと思いながら薄目を開けて遠くから眺めていたものである。
少しばかり怖い所であった。

その隣が散髪屋さん。
当時は家で母がはさみで髪を切ってくれていたので、あこがれの場所であったが一度も行ったことはなかった。

お向かいは長屋であった。
裏のねーさんと呼び合っていた年頃のおねーさんを初めとして、何人か長屋の連中がいて、毎日よく遊んでいた。
当時は缶けり、鬼ごっこ、かくれんぼ、かけっこ、縄跳び、草野球、学校ごっこなどしていたが、裏のねーさんがリーダーである。

草野球では野球のルールを学び、今、野球好きなのはあの時の経験があってのことだと思う。
5才のasanagiも「チップ、チップ」といいながら手打ちで草野球に興じていたようであった。
面白かった記憶しかない。

この頃一番残念に思っていたことはすぐ上の姉が学校へ行けてasanagiがいけなかったということである。
まだ5才だから当然であるが、身長も体重もそんなに変わらず、物覚えも姉には負けていなかった。
しかも運動神経はasanagiの方がよかったと記憶しているのに・・・・である。

母に「お姉ちゃんが学校へ行けて、どうして私はいけないの?」と言って困らせていた記憶は残っている。
もちろん当時のasanagiは年齢が足りないことは理解できない事であった。

昭和22年、義務教育法が変わり、この年から1年生はカタカナよりひらがなから学ぶようになった。
大慌てで母が姉にひらがなを教えたそうである。
asanagiも姉と一緒にひらがなを既にマスターしてしまっていた。


c0043055_10014210.jpg




[PR]
by asanagi62 | 2018-11-06 10:54 | 戦後を生きて | Comments(0)

残された時間の中でおもうこと


by asanagi62